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スピーカー、ヘッドホンとオーディオアクセサリーのレビューをメインとしたオーディオブログ。感じ取れ音楽!
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カイザーサウンドのオーディオクリニック

000.jpg2012年9月10日発売のオーディオ雑誌「AUDIO BASIC 10月号」で、カイザーサウンドのオーディオクリニックが記事として掲載されている。
オカルト色の強いカイザーサウンド、ローゼンクランツの存在というのは、オーディオ業界において異端であり異色。
そんな奇知をてらった存在であるカイザーサウンドの技を、オーディオ専門誌が題材として採用したことにまず驚きを感じた。
しかも紙面にして4ページ、「SPECIAL REPORT "カイザー"の不思議なクリニックに立ち会った」と題して特集が組まれているのだから尚更である。


雑誌とは広告

オーディオに限らずどのような業界でも言えることだが、雑誌というのは広告媒体そのものであって、言わずもがなお金が絡み、泥臭いイメージで見てしまうというのが私の正直な感想である。
そのため、雑誌に掲載されている製品の紹介文であったりレビューを鵜呑みにするのは言語道断だと考えている。
製品を酷評している紹介文など絶対にありえないし、あってはならない。

通常、ガレージメーカー、中小企業の製品が、オーディオ専門誌で特集を組んでまで紹介されることは無い。
更に言えば、オカルトと言われるような摩訶不思議な商品となれば、まず間違いなく特集記事などお目にかかれないだろう。

前置きが長くなってしまったが、世間一般にオカルトと認知されているであろうカイザーサウンドの技がオーディオ専門誌で特集を組まれることの特異性をわかっていただけたであろうか。


カイザーサウンドが特集を組まれた理由とは

それでは、なぜココまで大々的に採り上げられたのかを考えると、それは人の感情のひとつである「興味心」に尽きる。
「音を良くしたい」、「もっと素晴らしい音で音楽を楽しみたい」というオーディオに関わる人であれば誰もが持っている純粋な感情から生まれるのが、オーディオ製品に対する「興味心」である。

オーディオ製品に対する感情が肯定的であれ否定的であれ、興味が無ければ感想は生まれてこないと私は考えている。
この世に無数に存在するオーディオ機器、オーディオアクセサリーが人の感情を刺激し、揺さぶり、誘惑する。
ローゼンクランツ製品であり、カイザーサウンドの技も例外ではなく、「本当によくなるの?」「何で音がよくなるの?」と気になってしまうのは人の常である。
そして、「そんなことあるわけない」、「プラシーボ効果、思い込みだろ」といった感想であったとしても、それは興味があるということ。

興味のないことで人は動かない、興味があるから人は行動を起こす

今回は、その「興味心」に"東京オリンピック出場、競輪でグランプリ獲得、シドニー五輪で日本代表監督という経歴を持つ斑目秀雄氏のオーディオシステムをオーディオクリニックする"という「話題性」が加わることによって企画が実現したのだろう。

特集記事に書かれている「チューニング以上に斑目さんと会えることが楽しみ」という編集者の言葉が正直すぎて面白い。
もし仮に一般人のオーディオシステムをオーディオクリニックするとなれば特集が組まれることはないはずだ。


いざ、オーディオクリニック

さて、記事の詳細については実際に雑誌を購入して特集記事を読んで戴くとして、ココではオーディオクリニックに対する私なりの意見を書いてみたいと思う。

今回特集記事で紹介されているオーディオクリニックの内容は、カイザーサウンドファンであればお馴染みの「スピーカーの加速度組み立て」や「ケーブルの配置管理」、そして「スピーカーの配置」。
他にも細かなクリニックを行っているようだが、特に効果が大きいのはこの3点である。
新しい機器や、新しいケーブルを導入することなく、技の力だけでどれだけ音質向上することができるのかを実践している。


スピーカーの加速度組み立て

まず最初に行ったのがスピーカーの加速度組み立て。
スピーカーを一度解体して組みなおす。
このときにポイントとなるのが、ネジを全て外して適材適所に配置転換して締めなおす作業。
振動が最も綺麗に抜けていくように、言い換えれば加速度がつくようにネジを配置していくのだが、何度も目の前でこの作業を見ている私であっても、いったいどのようにしてネジを見分けているのかサッパリわからない。

常人にはわからない感覚、人は理解できないものをオカルトと判断する

しかし、大事なのはオカルトかオカルトでないかという点ではない。
それよりも、音楽としてのクオリティが高いか低いかのほうが重要である。
オカルトだから、といった理由で食わず嫌いになってしまうのはいかがなものだろうか。

何よりも大切なのは、音楽を真正面から見つめ、音楽を感じること

オカルト談議など本来の目的からズレていると断言する。


方向性とは

ここでカイザーサウンドの提唱する「方向性」について軽く説明しておこう。
方向性は金属だけでなく木材にもあるのだが、今回は金属にスポットを当てて説明していく。
ネジでもインシュレーターでも支柱でも何でもいいのだが、金属というのは重心が完全に中央にはこない
これは地球の重心の影響によるものだが、それによって金属には偏りが生まれ、振動の抜ける方向を決定するため、カイザーサウンドで言われる「方向性」が生まれる。
その方向性を整備することで振動の抜ける道を整えることができる。
これが加速度組み立てと言われる技術の理屈である。

金属の重心を中心にもってくるのは簡単なことではない。
とてつもなく高度な技術が要求される。
有名な話なので知っている方も多いと思われるが、日本の小さな町工場が作る砲丸が非常に精度が高く、「魔法の砲丸」と言われている。
砲丸というのは鋳物から作られ、鉄、シリコン、カーボン、マンガン、リン、硫黄などを混ぜてつくるのだが、その時に品質にバラつきが出来てしまう。
それは、重力によって重いものは下へ、軽いものは上へ浮くため、下のほうが密度が高くなってしまうからだ。
当然重心はズレる。
この話からもわかるとおり、カイザーサウンドの技のキーポイントである「方向性」というのは非常に理に適った考え方であることがわかる。
ただし、それを見極める術、この点だけが唯一オカルティックであることを除けば・・・


モノが違えば音は変わる、人が変われば音は変わる

記事の中で、「自転車も組む人で違いますか?」「驚くほど違います」というやり取りがあるが、これは素人であっても容易に想像することができるはずだ。
自転車でもF1カーでも何でもいいが、組み立てる人が変れば違いが出るだろう。
同様に、この世に完全に同一なネジ、金属板、木材などは存在しないのだから、同じ製品であったとしても正確には同じとは言えないはずである。
モノが違えば音は変わる
考えてみれば当たり前のこと。

同じオーディオ機器なのに音が違う、なんてことがあっても決して不思議ではない。
むしろ違っていて当然。
全く同じであることのほうがおかしいのだ。


スピーカーの配置調整

次にスピーカーの配置調整について書いていこう。
これは誰もがやっていることなので、特に詳しく書かなくても理解できる部分だろう。
スピーカーの配置を変えれば音が変わる
スピーカーから音の波が出る、壁にぶつかり反射する、戻ってくる、また反射する、この繰り返し。
最初にスピーカーから出る音を第一波とするなら、第一波が向かいの壁を反射し、スピーカーの後ろにある壁でまた反射し、スピーカーから出る第二波とピタリとタイミングが合うことで音がまとまる。
このタイミングがずれるとグチャグチャになってしまう。
そして、左右のスピーカーから出る音は放射状に広がっていくわけだが、左の波と右の波がぶつかる。
このときの角度、距離によって調和するかしないかが決定する。
音が綺麗に調和するポイントを探
これがスピーカーの配置調整。


調和こそが真理

これはオーディオだけでなく様々な場面で言えることだと思うのだが、

全ては調和してこそ真価を発揮する

私の自論のひとつである。

子供の頃に熱中していたゲーム
どうすれば強くなれるのかを考えたどり着いた答え、それが調和。
場を把握し、相手の動き、相手の心を把握し、決して自我を強調せず、溶け込むように、空間と相手に適応して呼吸を合わせることで勝利へ近づくことができる。

学生時代に熱中したF1
どのようなチームがレースで勝つのかを考えたどり着いた答え、それが調和。
クルー達の想い、技術によって作られたF1カー、タイヤ、ドライバー、作戦、当日の天候や気温など、あらゆる要素が調和したときに、最高の結果が生まれるのだ。
ドライバーだけが優れていても優勝できないし、車だけが速くても駄目。
全てが絶妙のバランスで調和しなければならない。

大好きなヘヴィーメタル
メタル以外の全ての音楽で言えることだが、これも調和が大事。
ボーカル、ギタリスト、ベーシスト、ドラマーなど、全ての奏者の息が合い、更に言えばオーディエンス、観客とバンドマンの息が合えば完璧なる調和。
ライヴは全てが調和したときに最高のライヴとなる。

調和はジャンルを問わない、競馬であっても同じこと。
馬が強ければ勝てるのか?勝てるわけがない。
馬、調教師、騎手、当日の芝や気温、コースの形状、更には馬主の考えなどなど、あらゆる要素が調和し一致したときに最高のポテンシャルを発揮する。

そしてオーディオ
アンプだけハイエンドなら音が良くなるのか?そんなことはありえない。
アンプ、スピーカー、DACやトランスポート、電源や部屋などなど、全ての要素が調和し足並みを揃えることで音楽が完成する。

何事も大切なのはバランスよく調和すること
オーディオであれば、各機器の音楽性がバラバラでは音楽はまとまらない。
全ての意思が同じ方向を向いて前へ進むことで初めて調和が生まれる。
自然に、綺麗に、なめらかに、あるがままに・・・

自然体で音楽が鳴るような状態にするのがカイザーサウンドの音楽真理

私はそう解釈している。


最後に

貝崎氏は、オーディオシステムのバランスの悪いギクシャクしたところクイクイっと調整して滑らかに動くようにする。
オーディオ界の整体師のような存在なのかもしれない。
そして、その技は職人の域であって、誰でも簡単に真似できるようなものではない。
今までに見てきた数多くの患者(オーディオシステム)の経験があるからこそ会得できた感覚。


「どうしようもないぐらいに体調が悪い・・・何でもいいからどうにかしてくれ!」

「治しましょう。この魔法の手で。」

「怪しいけど、、、お願いします。」


人はそれをオカルトと呼ぶけれど、健康であることが何よりも大切
オーディオシステムは健康が一番!

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「カイザーサウンド」

第一章~初心忘れるべからず~

第二章~カイザーサウンド(音は生き物)~

第三章~破滅からの転生~

第四章~貝崎親子来訪記Part.2~

第五章~ヘッドホンサウンド~

第六章~スピーカーサウンド~

第七章以降未定
 

★第三章~破滅からの転生~

◆スピーカーセッティング

ヘッドホンシステムとスピーカーシステム。
機器におけるオーディオシステム上の違いはどこにあるのか。
実は、全くといっていいほど差が無い。
それどころか、差は無いと言い切ってしまってもいいだろう。

音を出す振動板までは、ヘッドホンとスピーカーは同じ道を辿る。
音が出る瞬間、その時まで、何も差は生まれない。
差は無いのだ。
あとはヘッドホンから、スピーカーから音が出てフィニッシュ。
と、上手くことが運べばどれだけ楽か。
現実はそんなに甘くない。

確かに、音が出るまでに限れば、差は何一つ無いと結論付けて問題ないだろう。
しかし、音は耳に届くまで見届けなければならない。
音を感じるのは人なのだから、至極当たり前の道理である。

音が出てから耳に届くまでの空間。
ココがヘッドホンとスピーカーの決定的な違いだ。
たったコレだけの違いが、とてつもない差を生み出す。

もし仮に、ヘッドホンが「樹海を抜けたら目の前に旅館」だとすれば、スピーカーは「樹海を抜けたら絶壁」と表現したい。
トランスポート、DAコンバータ、アンプ、ケーブル、電源などなどを攻略し、樹海を抜ければ気持ちのよい温泉と美味しいご馳走、ふかふかのお布団が出迎えてくれるヘッドホンシステム。
同じ苦労をして樹海を抜けても、今まで以上に困難な、スピーカー設置とルームチューニングという絶壁を攻略する必要のあるスピーカーシステム。
ヘッドホンシステムとスピーカーシステムのセッティングに大きな隔たりがあることに疑問の余地はない。

スピーカーの設置とルームチューニング。
スピーカーユーザーなら誰もが悩み苦労していることだろう。
考えただけでも心が疲弊し、オーディオを投げ出したくなるほどである。
それほどスピーカーを鳴らすことは難儀。

スピーカーシステムにおいて重要なのは、音が出てから耳に届くまでの空間を制すること。
空間を制することで、音楽は心の壁を越えて人へ伝わる。
すなわち、心に響く音楽の獲得である。

心の壁は無理矢理越えることなどできない。
音の流れを感じ取り、音と呼吸を合わせ、空間に溶け込む意識。
音と心が通じたとき、心の壁は消えてなくなる。
スピーカーのルームチューニングとは、このような領域なのではないかと素人ながらに推測する。


◆破滅からの転生

初めてのスピーカー導入については、「貝崎親子来訪日記」を読んで戴きたい。
「貝崎親子来訪日記」によって、以下の流れを知ることができる。

・初めて自分で組んだスピーカーシステム
・鳴らないスピーカー
・命を吹き込まれたスピーカー

貝崎氏の腕によって一旦は音楽を表現できるようになった現実。
その後何があったのか。
話を進めていこう。

貝崎親子来訪から数ヵ月後、サウンドステーションⅡというオーディオボードを導入した。
自分で設置したため、若干スピーカーの配置が変わってしまった。
位置が変わることで音が狂うかと思ったが、その心配は杞憂であった。
素人がポンと置いただけで部屋いっぱいに音が広がる。
魔法か!このオーディオボードは!
サウンドステーション恐るべし。
音が部屋全体で鳴らなくて困っている人には是非試して欲しいオーディオボードである。

次に、スピーカーケーブルをSP-RGB3に変更。
これは、SP-RGB1、SP-RGB2を超えるハイクラスのケーブル。
非常に高価なケーブルということもあり、大いに期待して導入した。
それはもう、期待に期待を込めて。
この時、スピーカーケーブル導入が破滅の始まりになろうとは微塵も思わなかった。

そして、スピーカーケーブルを交換して音出し。

!!??
まさかの崩壊。
音は痩せ細り、部屋全体で音を鳴らすなど夢のまた夢。
前方からしか聞こえてこない音。
音が死んでいる。
聞くに堪えない酷い音だ。

スピーカーケーブルをアップグレードしたことによって音が死んでしまったのだ。
こんな結果は想定の範囲外。
悪化することなど予想できようものか。
上りきった絶壁から突き落とされ、振り出しに戻ってしまった。
またも目の前に立ちはだかる壁。
絶望以外のなにもない。

その後、スピーカーの配置を移動、移動、移動、移動、移動・・・・・・
掴めそうな岩を探りに探り、少しでも這い上がろうと試みる。
上っては戻り、上っては行き詰る。
一線を越えれない。
素人技の限界。
結局、壁を登りきることはおろか、上ろうとする気力すら消え失せた。
そして、スピーカーシステムは破滅した。

後から貝崎氏にこの話をしたところ以下のような回答を戴いた。

前回訪問した時は、その時に所有していたメーカーのバラバラなアンプやスピーカー、ケーブルを使って、強引に鳴るようにセッティングしたようだ。
それはもう針の穴を通すほどの緻密なセッティング。
使用するケーブルが変わり、位置も変われば、バランスが崩れて当たり前。

無限に存在する絡み合ったセッティングの紐。
その中から当たりの紐を探り当てるのは、スピーカー素人の私にできる芸当ではない。

お手上げ。
己の力の限界、袋小路、完全なる敗北。
職人技によって生み出される工芸品を素人が作るのが無理なのと同じこと。
スピーカーセッティングは実力が全て。
そこには慈悲の欠片も存在しない。
戦争、戦い、力を持つものが勝利を手にする。
自分の手によってスピーカーに命を吹き込むことは不可能だと悟り、静かにスピーカー第一章は幕を閉じた。

時は流れ、2年。

オーディオとは人生そのもの。
自分の生活スタイルに合わせ、自分の精神、肉体に合わせてオーディオ、即ち音は変化していく。

あらゆるパーツがカチカチと組み合わさり、タイミングという名のパズルが完成する。
今こそ転機なり。
アンプも、スピーカーも、スピーカースタンドも、ケーブルも売却。
そこに迷いはない。
一度白紙へ戻し、全てを一新する。
新たなスピーカーシステムを組むタイミングは今しかないと警笛が鳴っている。
準備は整った。
早速貝崎氏に連絡をとる・・・破滅からの転生を信じて。

こうしてスピーカーシステム第二章が幕をあけた。

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「カイザーサウンド」

第一章~初心忘れるべからず~

第二章~カイザーサウンド(音は生き物)~

第三章~破滅からの転生~

第四章~貝崎親子来訪記Part.2~

第五章~ヘッドホンサウンド~

第六章~スピーカーサウンド~

第七章以降未定


★カイザーサウンド(音は生き物)

カイザーサウンドとは、

「カイザーサウンドは特徴が無い音」

「・・・?」

誰もの頭上に浮かび上がる特大の疑問符。
間違いない、カイザーサウンドの音を言葉で伝えきることは不可能。
実際に自分の耳で聞くことでしか理解できない、これが現実。
と言ってしまっては元も子もないので、言葉の限界に挑戦してみよう。

カイザーサウンドとは、

兎にも角にも音楽的、熱く生命力に溢れ、パッションに満ちている。
何よりも音の流れ、しなやかに音が流れ、ビシッ!ビタッ!と決まるタイミング、リズム。
感情表現の鬼、時に激しく、時に優しく、そして悲しさ、楽しさも表現可能。
音色もまた変幻自在、暖かくも冷たくも変化する。
あらゆる音を一つのシステム、一つのスピーカーで再現できる。
なぜなら、固有の音を持たないから。
無個性、そう、個性、特徴が無いのがカイザーサウンド!

結局ソコかい!
右往左往して到着した先に待ち受けていた言葉。
それはスタート地点で横にいたあいつ、「特徴の無い音」。
特徴の無い音、特徴の無い音・・・、ブツブツと唱えていてふと思う。

「だから何なんだ?」

そう、だから何なのだ。
ローゼンクランツの音は特徴の無い音、無個性な音。
これは間違いない。
今まではここで思考が止まっていた。

これでは話が先に進まない。
一歩踏み出す必要がある。
しかし、その一歩を踏み出す為に必要なピースが欠けていた。
否、思考の欠如、はたまた怠慢か。
何故?の思考を止めるなとはよく言ったものだ。
人間は常に疑問を抱くことで成長する。

どんな音か、それを伝えようとしていたことが間違い。
先見性、視野の拡大、音の先にあるナニカ。
今一度問おう。

「だから何なんだ?」

今なら更に先まで思考を巡らせることができる。
ローゼンクランツの音は個性を持たない音。
言い換えれば、低音が、高音が、音が太い、音が細い、冷たい、暖かい、柔らかい、硬いなどといった、音の細かな要素に意識がいかない音。

だから・・・ローゼンクランツの音は、「強制的に音楽に意識がいく」のだ。

それは、まるで目を閉じ、耳や鼻を塞ぎ、五感を一つ一つ排除していった時に、研ぎ澄まされてくる第六感に似ているのかもしれない。
数々の音の要素を排除することによって、音楽の本質が浮き彫りになってくるのだ。
まるで、強制的に音楽に意識がいくように操られているかのように。
自然と、無意識に、音楽に意識が引き寄せられる。
これがカイザーサウンドなのだと今は確信を持って言える。

「強制的に音楽に意識がいく」ことを狙ってローゼンクランツ製品は作られているのか。
それとも結果的に「強制的に音楽に意識がいく」音作りになったのか。
いずれにせよ、「魅力」という能力値が特化していることに変わりはない。
例えるなら、三国志で魅力溢れる武将達、劉備、諸葛亮、周瑜、張昭・・・何か違う。
ローゼンクランツのイメージに合うのは張魯か。

人を惑わすほどの圧倒的魅力。
一種の宗教的魅力に近いものがある。
ということを客観的意見として書いておこう。
これもまた素直な感想。

原音に忠実な音を目指す場合、おのずと癖の少ない音を目指す人が多いのではないか。
私もその一人。
それが自然な音に近づけると考えていた。
自然な音は、妙に艶っぽかったり、派手でキラキラしてはいない。
作ったような癖のある音ではない。
つまり、癖を減らせば自然な音に近づいていく。
いたって理に適った考え方ではないか。

しかし、自然な音を目指していくと同時に、陥りやすい音の傾向がある。
これは私のオーディオシステムを組む能力不足によるところもあるので、一例として捉えて欲しいのだが、「音の癖を削るほど、音楽を流していても気にならないほど自然で、空間に溶け込んだ音になっていく」というのが私が経験から自力で導き出した結論だ。
また、自分にはこの結論に至るだけの力しかなかったとも言える。

耳に優しく、サラサラと体に入ってくる自然体なサウンド。
これが音の癖を削ることで到達する境地。
ただ・・・そこに・・・熱が、勢いが、感情が、うねりが無いのだ。
そして、汚さや凄み、激情を表現することができない。

癖の無い音、カイザーサウンド。
同じ癖の無い音でも、カイザーサウンドは全く逆。
グイグイと心を惹きつける魅力の強い音。

同じ癖の無い音でも、全く方向性が違うというのは驚きである。
カイザーサウンドは、小さな音量であろうが、疲れて寝ようと思っていようが、音楽に心奪われる。
それだけの求心力を持った音。

なぜこんな音が実現できたのか。
私は、ローゼンクランツ製品が秀でている「魅力」の原因は以下の3点にあると考える。

1.生命力
2.運動能力
3.感情表現

オーディオ経験のある人ならば、

「何を言っているんだ?今はオーディオの話をしているんだぞ?」

と思うに違いない。
およそオーディオに関連性があるとは思えない言葉ばかり並んでいる。
しかし、これらがカイザーサウンドの正体。

生命力、運動能力、感情表現、まさに生物そのものではないか。
溢れ出るエネルギーとパワー、激しくも柔軟にも動き、ピタっと静止し、勢いよく動き出す。
そして、無限に変化する感情を巧みに描き出す。

どうすれば生命力が出るのか。
どうすれば運動能力が高くなるのか。
どうすれば感情表現が豊かになるのか。

カイザーサウンドは、そのカラクリを熟知し、自在にコントロールすることができる。
匠の技、それは1000を超える現場でのセッティングによって培われた熟練の技術、研ぎ澄まされた感性。
その技術と感性によって製品が作られているからこそ、ローゼンクランツ製品は共通して三大要素を持つ。
また、全製品に流れるマインドにブレが無いからこそ、ローゼンクランツ製品の支配率が高くなるほどに足並みを揃え、生き物としての完成度を増していく。

自然に身を任せる。
自然の摂理に逆らわない。
生物、植物、自然界の全てが、理に適った構造を持っている。

当たり前のことを当たり前にすることの難しさ。
それが出来た時、生きた音を生み出すことができる。
自然を模範とし、理解し、オーディオに流用することで音に生命が吹き込まれる。

カイザーサウンドとは、生き物である。

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「カイザーサウンド」

第一章~初心忘れるべからず~

第二章~カイザーサウンド(音は生き物)~

第三章~破滅からの転生~

第四章~貝崎親子来訪記Part.2~

第五章~ヘッドホンサウンド~

第六章~スピーカーサウンド~

第七章以降未定


★第一章~初心忘れるべからず~

「どんなスピーカーが欲しいですか?」

「どんなヘッドホンが欲しいですか?」

このような質問をされた時、脳裏に浮かんでくるイメージ。
それが自分にとっての理想の音だろう。
理想の音、真に好きな音、心から音楽を楽しめる音。

オーディオを趣味とする者は、己の理想とする音を追い求めることに邁進する。
ただ直向に、前へ前へと歩を進めることに集中する。
しかし、その先にある理想郷へ辿り着けるものは極僅か。
多くの者は迷い、苦しみ、立ち止まり、失い続ける。
考え、正しき道を定めない限り・・・

「あなたにとっての理想の音ってどんな音ですか?」

こう聞かれた時、どのように答えるか。
この質問、決定的に音楽観を判別する魔性の質問。
回答は以下の四つ。

1.クリアーで澄み切った音
2.甘美でとろけるような美しく柔らかな音
3.鋭利でキレのあるスピード感のある音
4.重厚で密な圧倒されるような音

究極の選択、よく考えて選んでほしい。
今までのオーディオ経験から結論を導き出す。
自分の好み。どんな音が好きなのか。
本来ならば考えてはいけないこと。
嗜好とは、直感に頼り、即答すべき本質的なもの。

1番を選んだ人。
クリアー、澄み切ったというイメージは、生演奏の音そのもの。
色付けされていない自然な音を指している。
即ち、原音に忠実な音をオーディオで再現しようとしている人。

なんてのはデタラメ、馬鹿げた虚偽そのもの。
どの回答を選んだとしても言えることが一つある。
それは、音を部分部分のパーツで見てしまう人というのは、オーディオの悪魔に囚われている可能性が非常に高いということ。

対して、以下のように答えた人はいるだろうか。

「何言ってんだ。音楽を楽しめる音が理想の音だろ?」

これこそ真理。
音楽の真髄を理解できている人。
心を揺さぶるその音が、音を判断する指針となる。

さて、あなたの回答は前者か後者か。
おそらく、前者のほうが圧倒的に多いのではないだろうか。

いくつものオーディオ機器、オーディオアクセサリーを試し、金と労力、時間を費やす。
変化する音に喜び、そして悩み、近づき遠ざかる理想像。
その道は険しくそして果てしない。
夢は夢なのか、心を削られる日々。
オーディオの悪魔が、身動きのとれない泥沼へと引きずり込む。
動けば動くほど深みへとはまっていく、これがオーディオの怖さである。

無駄、無駄、無駄、全てが無駄だ。
そんなことを思う時もあったのではないか。
オーディオにおいて、無駄なことなど一つもない。
無駄にしてしまうことが過ち。
無駄だと考えず、そこから学び糧とすることで成長へと転ずる。
オーディオに限らず、人生においても同じこと。
過ちの数が多いだけ人は成長する。

いつからだろう。
理想の音など考えるようになったのは。
この発想はオーディオに興味のある人特有のもの。
いろいろな音を経験するからこそ生まれてくる考え方。
様々な音を知れば知るほどに、理想の音はより具体的に細かく設定される。
その時にはもう遅い、手遅れ。
砂漠の中央に置かれた蟻、生存確率は限りなくゼロだ。
起死回生、命を繋ぐオアシスを見つけることができるか否かに全てがかかる。

オアシスとは何か。
自分の力でオーディオシステムをゴールへと導くことができないと悟った時。
救世主たる存在、音のカラクリを知る人に頼るのは決して間違いではない。
自分ひとりでは実現不可能なこと、それは生活、仕事においても多々あること。
餅は餅屋、専門家の存在、それこそオアシス。

話を戻そう。
オーディオの知識など全く無かった頃の自分を思い出してみてほしい。
ラジカセから流れてくる音楽を聞いて、低音が弱い、高音が痛いなどと考えていただろうか。
ラジオから流れてくる音楽を聞いて、解像度が低い、音色が冷たいなどと考えていただろうか。
単純に、「この曲良いなぁ」と思えたあの感覚が、音楽の核心をついている。
そこを忘れてしまっては、いつまでたってもゴールに到達することはできないのではないか。

かといって、音のひとつひとつの要素を軽視していいわけではない。
なぜなら、人それぞれ好みの音があるからだ。
甘美な音が好きな人もいれば、繊細な音が好きな人もいれば、へヴィな音が好きな人も存在する。
これはこれで大事なこと。

しかし、好みの音を追い求めることに意識がいきすぎていないだろうか。
常に忘れてはならないのは音楽の本質。つまり、音楽を楽しむということ。
本能に全てを委ね、音楽を楽しむ。
こんな簡単なことが、オーディオ経験が長ければ長いほど難しくなってしまう不思議。
経験が、知識が、鋭い感覚を鈍らせる。
音の変化が人を惑わせるのだ。
これがオーディオの悪魔の正体だろう。

自分は音楽を楽しんでいるのだろうか。
音の細かな要素にばかり意識がいっていないだろうか。
改めて自問自答してみてほしい。

誰もが初めは純粋に音楽を楽しんでいたはずだ。
初心忘れるべからず。
音を楽しんでこその音楽であることの再認識。

何よりも第一に、音楽の本質を見極められるようになった時。
本当の意味での理想の音へと近づいていけるようになるはずだ。
これは、一度オーディオという世界を経験しなければ理解できないこと。
経験した苦労、苦悩が多いほど、何倍も音楽に感動できるのではないか。

何が理想なのか、その考え方を変える勇気。
もし今の自分がひとつひとつの音の要素に囚われているならば、今すぐ初心に戻ってほしい。
音楽を楽しむことの大切さ。
それだけで、間違いなく理想へ近づけるはず。

拍手[9回]

 ★因果律

誰もが聞いたことのある言葉だと思います。
ただ、詳細を知っている人は意外と少ないのではないでしょうか。
興味のある方は一度調べてみてください。
簡単に言えば、物理学的に見て全ての事象は決定されているということです。
これは人間の思考や行動も含みます。

私が感覚的に因果律に気づき始めたのは中学2年生の頃。
大学時代に物理学の講義で因果律を学んだ時に、自分の考えとビタっと一致したのを今でも鮮明に覚えています。

人間の誕生の瞬間から見てみるならば、人間は誕生したその瞬間から死ぬ時までに、何を考え何を行動するか、その全ては決まっているわけです。
このような考えに対し、「努力によって未来を変えていこうという意思に欠ける」、「最初から全て決まっているなんて悲しい」といったような声をよく聞きますが、そこまでも全て含めて決まっており抗えないのが因果律。
もっと過去から見るならば、宇宙が誕生した瞬間から全て決まっています。

今その瞬間に「頑張ろう!」と思うか思わないか、それまでもが決定されています。
今までの環境、その瞬間瞬間に何を考え何をしてきたか、その影響により未来が決定していきます。
「頑張ろう!」と思うか思わないかは、それまでの経験によって答えが導き出されるわけです。

私のプロフィールにある座右の銘「なるようにしかならん」というのは、因果律を言い替えたもの。
この考え方を悟っている人というのは、心に余裕が生まれるように私は思います。
オススメというのは違和感がありますが、因果律の法則は是非とも深く理解してほしい考え方のひとつです。

今まみそぶろぐを見ているのも、記事を見て何を考えどう行動するかも全て決まっています。
全てを流れに任せることで、多くの悩みから開放されるかもしれませんよ。


オーディオとは関係のない話でしたが、まみその考え方の中で大きな割合を占めている因果律についてでした。

拍手[0回]

★本音こそ正義

2009年を振り返ると、潜在的なまみそぶろぐ閲覧者が減ったなぁ、と実感している。
アクセス数で言えば、100~200/日は減っている。
原因としては、不況によるオーディオファンの減少もあるだろうし、更新頻度の低下もあるだろうが、タイミングなどを総合的に見て、一番の原因は傾倒した記事内容、つまりはローゼンクランツに関する記事の増加なのではないかと個人的には感じている。
アクセス数の減少は予測できていたことであり、リスクを理解した上であえて情報を発信していた。
しかし、私はアフェリエイトをやっているわけでもなければ、ブログでお金が貰えるわけでもないので、アクセス数は何の意味もなさず、だからこそアクセス数の減少をリスクとは捉えない。

何が大事なのか。
それは自分の本音を書くこと。
私が初めてWebサイトを作った2000年ぐらいからずっと言い続けていることだが、個人サイト、ブログは自己満足を満たすためのツール、この意味合いが最も強い。
そう考えるからこそ、アクセス数といった周囲の評価、周りの目、周りの意見を気にする必要は一切ないし、言いたいことを一方的にぶちまけている。
それがブログだと私は思う。

客観的に見れば、と言うよりも私自身が記事を書きながら、気持ちの悪いブログになったものだと痛感しているわけだが、自分の感想を正直に書かなければ意味が無いわけで、そこが守られなければそれこそ無意味な情報でしかなくなってしまう。

私はメーカーではないので、売れる情報、大衆受けする情報、又はそのように仕向けられた方向性を意識する必要はない。
受け手側(ユーザーサイド)からの情報発信である以上、そこを意識する必要はなく、意識することは情報のクオリティの低下に繋がるはずだ。
あらゆる方面から好感を持たれる内容にするか否かは、書き手次第でいかようにも操作が可能。
しかし、操作された情報に情報としての価値があるかと言えば、私は低いと断言する。
あえて「無い」と言わないのは、その情報による多大な影響があり、社会的役割を担っているからだ。
極端な例を言えば、お金で操作された情報誌の内容がわかりやすいだろう。
平気で嘘をつく世界、テレビ業界などはその最たる例だ。

政治の世界での正義論でもわかるとおり、正義という言葉は安易に使うと問題の起こる言葉のひとつである。
だが、そこであえて言おう。
オーディオの世界での感想、評価は「本音こそ正義」であると。

ただひとつ注意が必要で、本物と偽者は自分の感性で嗅ぎ分け選別しなければいけない。
それは勿論まみそぶろぐにおいても同じことで、私の発信している情報が嘘か本当かを閲覧者自身が判断して取捨選択しなければならない。
その判断に書き手の入り込む余地はない。


★強く輝く星を求めて

今後もローゼンクランツの記事は続いていくことになるだろう。
今以上にオカルトめいて怪しげな、そしてアンダーグラウンドなブログになっていくのは間違いない。
しかし、それによって離れていく読者が多数いたとしても、私はそれ以上に本物に辿り着ける人が一人でも多く出てきてほしいと思っている。
この台詞自体が全てを象徴していると言ってもいいかもしれない。
このような発言は何をも恐れず吹っ切れていないとできないのだから。

相対的に見てどれだけ信頼性、信憑性が薄れようとも、本音を発信することでしか伝わらない想いを感じ取ってくれる希少な存在に私は目を向けている。
そのような人との出会いを大切にしたいし、そのような人をできる範囲内で支援したいと思っている。

私がローゼンクランツ関係で書く記事は、言葉では伝わらないようなことを言葉で伝えようとしている。
なので、ほぼ全ての人は意味がわからないだろうし、理解できなくて当たり前、理解できたら逆におかしいぐらいだ。
一般的な音楽論と大きくかけ離れているから当然である。

今のブログの雰囲気はUSTヘッドホンの駆け出しの頃に似ているなぁ。
ふとそう感じた。

決して音基準を否定するわけではないが、少しでも多く音楽性基準で音を決めれる人が増えるよう、これからも尖った文章を発信していきたいと思っている。

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★はじめに

オーディオに興味を持ち始めてから約3年。
私は自分の理想とする音を形にすることに成功した。
ヘッドホン道の完結、その軌跡を記録しておこう。

★はじまり

m-sr325-2.jpgオーディオに目覚める引き金となったあるひとつのヘッドホンがある。

GRADO SR-325

ヘヴィーメタルを好んで聞いていた私にとって、SR-325が奏でる金属的な高音は衝撃であった。

「・・・こんな音が出せるんだ」

オーディオに目覚めた瞬間である。

★Audio Interu(オーディオインテル)

s-P1010029.jpg私にとってオーディオインテルは欠かせない存在。
まみそぶろぐの隠れたメインコンテンツと言える

USTヘッドホン

このヘッドホンが、「オーディオは音質ではなく音楽性であること」を悟らせてくれた。
同時に、オーディオにおける「リズム感」の重要性を私に刻み込んでくれた。

オーディオを趣味として始めてすぐにUSTヘッドホンに出会えたことは幸運としか言いようがない。
USTヘッドホンに出会っていなければ、相当な遠回りをしていたことだろう。
遠回りとは「音質の泥沼から抜け出せなくなること」。
耳で直接音を聞くヘッドホンユーザーは音質、すなわち性能面に意識がいきやすい。
USTヘッドホンの音を聞くたびに思い出すこと、それは・・・

「オーディオとは"音を楽しむこと"、すなわち音楽性を大切にすること」

音質に囚われず、音楽性を最優先してオーディオシステムを構築することがゴールへの近道である。

★試行錯誤の日々

オーディオにとって大事なのが音楽性だとわかっているものの、その「音楽」を再現できる機器、オーディオアクセサリーが見つからない。
まみそぶろぐの記事の数だけ機器やオーディオアクセサリーを試してきた。
自分の納得のいく音を求めて・・・
どれだけの時間、お金を割いてきたか計り知れない。
好みに限りなく近い音は度々出会うことがあった。
しかし、イメージにピッタリと合致する音が見つからない。

「オーディオとは終わりの無い旅」

そのように考えた時もあった。

★罠

数々の機器、オーディオアクセサリーを試してきた。
いろいろと試す、そして比較する。
何を基準に比較する?音質を基準に。
最悪なことに、

「音楽を"音質"で判断するようになってしまっていた」

本質である「音楽性」を判断基準にすることを忘れて・・・

★Rosen Kranz(ローゼンクランツ)

s-PICT0132.jpg私はローゼンクランツと出会う運命にあったのだろう。
今思うとそう確信できる。
貝崎氏が我が家に訪れ、ローゼンクランツの真髄を披露してくれた。
しばし忘れていた「音楽性」の大切さを思い起こさせる熱い魂のこもったサウンド。
これこそが求めていた音、理想の音。
オーディオとは何なのか、この時ハッキリと自分の進むべき道が定まった。

自分でわかっていたじゃないか、音質ではなく音楽性が大事なのだと。
決して忘れてはならない。

「音楽性あってこその音質、音質は後からついてくるもの」

判断基準にすべきは音楽性、音質はその後で考えればよいのだ。

★OJI Special

ee27dedb.jpeg理想の音を出すためのピースはそろった。
いや、まだそろってはいない。
オーディオシステムの核とも言える機器が決まっていない。

ローゼンクランツの音はニュートラルサウンド。
ソースに含まれるどのような音もありのままに出せる土台を作り上げる。

その音を色づけしてはならない、素直に、そのままに出したい。
そこで出会ったのがOJI Special
OJIサウンドは、ソースに含まれる音を色づけせずに再生する原音忠実を理想としている。

この二つのメーカーのコラボレーションにより、ソースに含まれる音をありのままに引き出すことができるのだ。
これは決して生演奏の音と同じ音を目指す原音忠実ではない。

「CDに含まれる音を色づけせず素直に引き出すという意味での原音忠実」

奏者やボーカリストだけでなく、レコーディングエンジニアやマスタリングエンジニアの技術も含めて音楽であり芸術作品であるという考えに基づき導き出された方向性。

★そしてその時

59b1e3be.jpegそして、その時、私にとってのベストなヘッドホンは・・・

オーディオテクニカ ATH-W5000

このヘッドホンが私の最終解答。
今の私が最も望むヘッドホン、それは

「環境の音を忠実に再生できるヘッドホン」

この特性において、ATH-W5000は数あるヘッドホンの中で群を抜いている。

冷徹で無機質な音のオーディオシステムでは、これでもかと味気ないサウンドを出し、
細身でクリアーな音のオーディオシステムでは、低域が出ずクリアーで華奢なキレ味の際立つサウンドを出し、
分厚く濃厚な音のオーディオシステムでは、情報量たっぷりに厚みのある濃いサウンドを出し、
高性能なハイエンドシステムでは、低く重く実体感の強い低域から突き抜ける高域、そして高解像度サウンドを出し、
生命力溢れる生々しい音のオーディオシステムでは、他を寄せ付けない有機的な生きたサウンドを出す。

どんな音が出るかは環境次第。
これがATH-W5000。
これほど忠実に環境の音を出せるヘッドホンを私は他に知らない。

オーディオインテルの精神を胸に秘め
ローゼンクランツのアクセサリーで音を構成し
OJI SpecialとATH-W5000でその音を正確に再生する

これにてまみそのヘッドホン道完結なり!

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★まみそ的エージング論 Part2

以前コラム「まみそ的エージング論」で述べた「効果的なエージングを行うには基本性能の優れた環境で鳴らすべきである」という考え方は今も変わらず、やはりエージングの方法には効率的、非効率的なものがあると私は思う。
そしてもうひとつ、エージング方法による時間の差はあれど、最終的には同様の音になるのかどうか。
この点に関しては前回答えを出すことができなかった。

さて、前置きはこれぐらいにして、実はオーディオ仲間と話をしていて面白いエージング論を聞く機会があった。
そのエージング論とは簡単に言えば「エージング方法によって音に差が出る」というもの。
これはエージング方法次第でエージング時間を短縮するだけでなく、音そのものも最大限引き出すことが可能という理論。
長時間のエージングによって同じ音になるのか否かは定かではない。

川を想像してみてほしい。
川には泥や砂や石がゴロゴロと乱雑に積もっている。
チョロチョロと流れる川であれば、この乱雑に積もった泥や砂や石はほとんど動かない。
電源ケーブルで言えばエージングに時間がかかるということになる。
しかし、雨が降り大量の水がドバっと流れてくれば、泥や砂や石は流され一掃される。
つまり、電源ケーブルに大量の電気を流してあげることでケーブルを綺麗にし、そしてなめらかに電気が流れるようにしてあげる。
というのが知人の提唱するエージング論である。

実はこの理論、私の理論とよく似ている。
よりワイドレンジな環境で使用することで、今まで使用していなかった帯域まで使うこととなり、短時間でエージングを完了できるという考え方。
これは電源ケーブルでいう大量の電気を流すという考えとよく似ている。
エージングの時間はやり方次第で短縮可能というのは同意できる部分である。

知人は更に続ける。
時間が経てばまた泥や砂や石が積もってくるため、定期的(3~4ヶ月に一度)にエージング専用機にて全てのケーブルをエージングをする必要がある。
これは今までの私にはない考え方。
一度エージングが完了すればそれで完結という考えを覆す。


★同一ケーブル比較

s-PICT0135.jpg実験のため、電源ケーブルBMI Hammerhead Gold Mk4を二本用意してみた。

果たして同一ケーブルで①「普通に機器に繋いで使用したケーブル」と②「エージング専用機器でエージングしたケーブル」に音質上の差は生まれるのであろうか。
ちなみに、①のケーブルは購入してから一ヶ月足らずのため単純にエージング不足の可能性あり。
また、①のケーブルは約2m、②のケーブルは約2.4mと長さが違うため、正確には同一ケーブルとは言えない。

>結果

基本的に①も②も同じ音。
①のほうがパワフルで濃く実体感が強く重い音。特に低域の重さに差があり。
②のほうが軽やかでふわっとしておりサラサラした音。
①のほうが凝縮された感じ、②のほうが音がほぐれて開放的。
上記理由から①のほうが音場は狭め、②のほうが音場が広く開放感あり。
レンジ、解像度等性能面での差は特に感じず。

同一ケーブルということもあり当然ほとんど同じ音だが、一般的によくエージングで感じられる「凝縮された音⇒ほぐれて広がる音」という変化が①と②で感じられた。
果たして①は今後②のような音になっていくのであろうか。
それともいくら長い期間使用しても②のようにはならなのだろうか。

結局、最終的に同じ音になるのかどうかという疑問は解決することができなかった。
もうひとつ注意すべきは、エージング時間、方法は関係なく、音の違いは長さによるものなのかもしれない。

★まとめ

結局私は今回の実験から、音の違いはエージングの程度の差によるものという結論に至った。
エージング専用機によるエージングの音質面の優位性は感じられなかったが、エージング専用機によって、3~4日でこれだけの音を引き出せるようになるのであれば、それはそれで非常に効率的かつ効果的だと言える。

長期エージングによって効率的にエージングを行ったケーブルと同様の音になるのかどうかの謎は次回へお預けである。

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★はじめに

過去コラムやコメントの中で度々私が述べている「オーディオは個人で楽しむもの」という考え。オーディオ議論を交わす機会が多い人は強く実感されていると思うが、根本的な部分で「個人のオーディオ」と「大衆のオーディオ」という見解の相違があるとあらゆる面で意見が食い違い、その食い違いの程度は嗜好の相違に匹敵する程に大きく、議論の余地なしと言っても過言ではない、私はそのように感じている。実に面白い、これは一度深く考察するに値する興味深い題材だ。なぜオーディオの楽しみ方・・・ここで「楽しみ方」という言葉を使うか否かまでも「個人のオーディオ派」と「大衆のオーディオ派」で違ってくるのではないか、そんな気がしてならない。それはさておき、今回は「個人のオーディオ派」としての私の意見を中心に、「大衆のオーディオ派」の考えを推測しつつ考えていきたいと思う。勿論私は「大衆のオーディオ派」の真意を知る由もなく推測にすぎないことはご了承願いたい。願わくば「大衆のオーディオ派」の人にコメントを戴きたいものである。

★「個人のオーディオ」

「個人のオーディオ」とはどういったものなのかをまずは定義付けしておく必要があるだろう。これは私のオーディオの考え方そのものの一部とも言い換えられる。いくつかのキーワードを羅列してみるので、これらから「個人のオーディオ」とはどういったものなのかを頭の中でイメージし確立して戴けたら幸いである。

・オーディオとは個人で楽しむもの
・自分が理想とする音、好きな音を目指すべきである
・他人の好みは考慮しない、全ては自分の理想の音の追求
・自分の好みは自分においてのみ絶対であり、他人から見れば絶対にあらず
・自分の好みの音を他人に押し付けるべからず
・自分の理論を他人に押し付けるべからず
・オーディオにおける全ては自身で判断し自身で決断し責任は自身にある
・自分は自分、他人は他人、他人の意見を尊重すべし
・自分は自分なのだから

「他人の好みを考慮すること=自分の好みを曲げること」だと私は考えている。他人の好みを考慮して音を作り上げることは、例外的に類似性の多い嗜好を持った他人というケースを除けば、それはすなわち自分の好みの音からは外れてしまうということになるだろう。果たして一個人のオーディオにおいて、そのようなことをする必要があるのだろうか、私には受け入れることができない。嗜好という要素を数値で計測することが不可能な以上、目に見える形で全く同一の嗜好を持つ人の存在を証明することは不可能であり、やはりオーディオとは自分の考える理想の音というものを追求すべきで、その結果その音に共感する人がいれば、それは「好みの要素に似たものが多いという相互関係がある」という思考経路を辿るのが最も自然だと私は思う。例えるならば、芸術家は自分の感情を絵に、造形物にぶつけて具現化するではないか。自分が作りたいと思うその思いを形にする。ここに大衆の好みが反映された時点で、私はそれは芸術家と言うよりは現代風に言えば企業であると思うのだ。

★「大衆のオーディオ」

前項の最後に書いた「企業」という言葉、これこそ「大衆のオーディオ」を現す最適な言葉だと私は思っている。メーカーと言い換えたほうがイメージしやすいだろうか。それでは先ほどと同じようにキーワードを羅列してみよう。

・なにより企業利益へ繋げることを考えとして常に持っている
・多くのユーザー、多くの好みに対応するための豊富なラインナップ、価格帯
・自分よりもユーザーありき、ユーザー先行型
・自分本位では利益に繋がらない、何よりも他人を考えるべき

要するに「メーカーサイドの考え方=大衆のオーディオ」というのが私の中での「大衆のオーディオ」の定義である。なので、仕事で音楽やオーディオに関わっている人には「大衆のオーディオ」の考え方を持っている人がいる可能性が高いのではないかと私は予測している。ただし、メーカーによって「個人のオーディオ」の意識が強いメーカーもあるだろうし、逆に「大衆のオーディオ」の意識が強いメーカーもあるように見受けられるし、中には極めて「個人のオーディオ」の意識が強い利益を無視したような職人気質なメーカーもあるだろう。いずれにせよ、私は他人を意識したオーディオ論を展開することは「大衆のオーディオ」と定義付けしたい。

★他人への干渉~強制~

「個人のオーディオ派」だけでなく「大衆のオーディオ派」の人の中にもいると思われるが、人に干渉されることを嫌う人は多いのではないだろうか。自分は自分で自分の理想の音を目指して試行錯誤し、自己責任で納得してオーディオを楽しんでいるのだから、「それは間違っている」「こうすべきだ」などと方向性を強制されることを嫌うのでは、と。私はそのタイプで、いろいろな人の意見や感想・インプレは、同じオーディオ仲間としてそれぞれが各自頑張っているという意味で、「こんな考え方をする人もいるのか」「こんな感じ方をする人もいるのか」「これは面白いな、試してみよう」などなど、非常に楽しく面白く、参考にさせてもらっているものの、逆に「あなたのやり方は間違っている」「こうすべきですよ」などと言われるのは筋違いだと思うわけである。

例えば「原音忠実性」。これはこれでオーディオとしてひとつの正解だと私は思うし否定もしない。しかし、生で聞く音と同じ音を目指すことが万人にとってベストな選択なのだろうかと言われれば、私はそれは違うと答える。機器やアクセサリーによって原音とは違い味付けされた音であっても、それが自分にとって心地良い、イイ音だと感じられるのであればそれが自分にとってのベストな選択になり得るはずだ。他にも「万人受けする音」こそイイ音であると定義し、そのような音を目指す人もいるだろう。これもまたその人にとっての正解なのである。ただ、それが全ての人にとっての正解かと言えばそうではなく、イイ音というのは人それぞれ千差万別であり、各々の中に違った正解があり、各々が自分の正解を目指して進んでいけばいいではないか。このあたりは完全に「個人のオーディオ」の視点からの意見と言えるだろう。同様の理由から、私からすると「ケーブル否定派・肯定派」の議論などは実に馬鹿馬鹿しく興味の無い話で、効果が無いと思うなら付属ケーブルを使えばいいだけであるし、逆に効果があると思うなら高価なケーブルや自作ケーブルを使えばいいだけの話である。自身がどう感じるか、全ての答えはそこにあり、他人が入り込む余地はないのではないか。水晶を置けば音が良くなる?そんな馬鹿な、オカルト?実際に自分で試してみて効果があるなら使えばいいし、効果が無いと感じれば使わなければいいだけではないか。なぜその選択に他人が関与する必要があるのか、私にはそこが解せない。

つまり、「個人のオーディオ派」の人だけに限ったことではないが、「自分は自分」という自分主導でオーディオを考える人と、自分の考えを押し付ける、又は自身の理論を他人に強要する人の意見というのは非常に根っこの部分で考えに相違があるため、あらゆる部分で意見が食い違い、そして理解し合うのが困難かつ時間がかかるのではないだろうか。たとえそれが親切心からくる言動であったとしても、受け手からすれば「それはその人の考え、自分は自分の考え」という考え方があるため素直に受け入れ難いはずである。少なくとも私はその一人だ。

★メーカーも

メーカーの中でも「個人のオーディオ」の意識の大小があると書いたがまさにその通りで、大衆を意識するメーカーであってもメーカーの理想とする音というのは非常に重要なキーポイントであることに疑う余地はない。メーカーの理想とする音を確立することはメーカーのブランドイメージを固め、同時にブランド力を強固とする。その中で、様々なユーザーに対応できるよう幅広い価格帯のラインナップを揃え、メーカーの音というのを維持しながら少しでもユーザー層を増やすために音のアレンジを加えてラインナップを増やす、そしてハイエンドモデル、トップモデルでは一切の妥協を許さず、コストも度外視で理想の音を形とする。察しの通り、メーカーであっても根本は自分主導で自分の理想とする音を追求し、それに共感するユーザーがついてくるという「個人のオーディオ」の考えが根付いているのだ。

★まとめ

さて、そろそろまとめに入ろう。今回私が言いたかったことは、オーディオとは個人主導であるべきであり、他人に強制的な干渉をすべきではないこと。オーディオを趣味とする人それぞれが、各々でオーディオを楽しみ、自身の体験を情報として発信し、その情報をそれぞれが自分の判断で取捨選択し、その作業を経てお互いが情報を共有し合い、その中で共感できる部分が見つかれば、それはどれだけ嬉しく楽しいものだろうか。お互いを高めあうことができるような情報交換、そんなオーディオコミュニケーションを心がけていきたいと思っている。

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★はじめに

オーディオを趣味とするときに誰もが一度は考えるであろうこと「コストパフォーマンス」。人によって音の良し悪しの判断に差異があるオーディオの世界においての「コストパフォーマンス」とは、低価格でどれだけ好みの音に近づけることができるかという意味での費用対効果として捉えるのが最も理解しやすく納得がいくものであると私は考える。別の言い方をすれば、オーディオで重視される要素のひとつである基本性能や機能性よりも満足度、つまり自分の音の好みにどれだけ近いかといった部分のほうがオーディオの世界では重要であり、この部分に価値を見出し費用対効果を考えたほうがオーディオに限ればわかりやすいということ。そして今回は、普段ついつい気軽に使ってしまう「コストパフォーマンス」という言葉にスポットを当て、オーディオの世界においての「コストパフォーマンス」という言葉の存在意義を多角的な視点から分析し考察してみよう、というのが主旨である。「コストパフォーマンス」という言葉の重みであり重要性はオーディオ経験の大小によって違いが生まれてくるのではないだろうか?そんな素朴な疑問から今回の記事を書くに至る。

★オーディオにおけるコストパフォーマンスとは

人によって好みの音が多種多様である以上、音の完成形もまた多種多様であり一つに限られるものではないため、それはつまり人それぞれが現時点で自身で考えられる可能な範囲内での音質的なゴール地点へ到達するために必要な費用に違いが生まれ、またその過程で発生する経験という名の財産への投資額が違ってくることは必然であろう。ここで問題となるのが何をもってして「コストパフォーマンス」とするかである。何が言いたいのかというと、要するに単純に機器やオーディオアクセサリーの価格、それに対する性能的価値及び満足度だけで「コストパフォーマンス」とするのか、それとも経験値という付加価値を含めた長い目で見たときの総合的な括りで「コストパフォーマンス」を定義するのか。私の独断と偏見によれば一般的には前者の定義付けがされるであろうと推測する。しかし、なぜ私がこのようなことを問題視するのかといえば、性能の高低、満足度の大小、費用対効果を数値化した時のプラス側への絶対値に関わらず、全てのオーディオ経験は今後のオーディオライフにおいて非常に強力な武器となるため、云わば財産的価値が高いと考えるからである。この論考を考え併せた場合、「コストパフォーマンス」の意味合いが単一化されず二分化されてしまう。例えば、「5万円のCDプレイヤーを購入し、極めて好みの音を手に入れ満足度が高い」、「3万円のCDプレイヤーを購入し、いまいち好みの音ではなく満足度が低いが、その後電源ケーブルやインシュレーター、コンセントやオーディオボードなどで7万円使用して極めて好みの音を手に入れた」という二種類のケースを考えてみると、その時点では前者の選択のほうが「コストパフォーマンス」が高いのは明白だが、今後のオーディオライフを考えたときには「自分好みの音に調整する技術」を前者と比べれば確実に取得できている後者の選択のほうが「コストパフォーマンス」が高いと考えることもできる。一見誰もが「コストパフォーマンス」が高いと思いがちな前者の選択も、見方を変えれば最善の選択とは言い難くなる可能性を秘めていることに注意する必要があるのではないだろうか。私は常にこう考えてオーディオ機器やオーディオアクセサリーを購入している。それは、「全ての投資は有益である」という考え方。全ての投資は無駄であることは絶対的になく、失敗したと思える選択であってもその経験は次に活かされる、否、自らの意思で活かしていくことが重要なのではないか、そのように思う。

★コストパフォーマンスを実感する時~好みの音の探求~

「このヘッドホン、コストパフォーマンス高いなぁ~」、果たして初めてヘッドフォンを購入した人はこんなことを思うのであろうか。少なくとも私はそう思った記憶はない。初めて何万円もするヘッドフォンを購入したときには感動したものだが、「これだけの値段を出すとこんな音が聞けるのか」とは思ったが、「コストパフォーマンスが高い」という発想は無かった。「コストパフォーマンス」とは経験あってこそ生まれてくる言葉であると同時に、経験あってこそ生まれてくる発想だと私は思う。オーディオ機器に限ったことではなく、例えば初めてのカメラを購入したとき、当然初めてなので他のカメラと比較したことがないわけで、他と比べてどこがどう優れているのかもわからず、他と比べてどこがどう劣っているのかも判断ができないため、「コストパフォーマンス」という言葉が出てくるとするならば、それは自身の財力からくる金銭感覚による「価格が安いのか高いのか」、もうひとつは「自己満足度」、この二点が判断材料として大きな効力を持つことになるだろう。初めての買い物で大きな率を占めるであろう「自己満足度」は、曖昧かつ自己の感情に頼ったもので正確性が高いとは言い難い。要するに「自己満足度」とは基本性能のように数値化して他者に示せる要素ではない。しかしながら、自己満足という感情的要素はオーディオの世界では重要であり大切にすべきポイントで、初めての買い物で「良い買い物した」「コストパフォーマンスが高いな」と感じることも多々あるであろうことに疑う余地はない。特に「良い買い物をした」という感情論から生起するであろうフレーズは自己満足度の占める割合が多いだろう。逆に初めての買い物で「コストパフォーマンスが高い」と感じることは可能性としては低いのではないか。話を戻すが、つまり、比較する対象が多ければ多いほど性能の面でも自分の好みが直結する自己満足という意味でも製品を相対的に見ることができるようになるので、簡単に言えばオーディオ経験が豊富であれば豊富であるほど、費用対効果という本来の意味、そして自己満足度という意味の両面で「コストパフォーマンス」を強く実感できるのではないか、ということである。ただし、これはその時点での自身の経験の範囲内、という制約があることを忘れてはならない。未だ経験したことのない未知の音が、自身の感性で包括的に見た時のグレードであり質が「より良い、より優れている」かは関係なしに、他の種類の音、今までに聞いたことのない音を聞くという経験を経ることで、自分の目指す音が変化することは可能性として大きいと私は思う。どこまでの音を求めるかは主に資金力によって左右されると思うのだが、こと「コストパフォーマンス」という観点に限定するならば、自分が定めたゴール地点の音を基本性能を無視して好みという視点から見たとして超える音であっても、例えばオーディオショップであったり試聴室であったり、知人からのレンタルであったり、手段は選ばず貪欲に経験していくことが大事であって、それによって「コストパフォーマンス」を自身の中でより強く実感し、そして把握し整理し今まで以上に優れたオーディオライフへ繋げていけるのではないだろうか。「様々な経験を経てこそ製品のコストパフォーマンスを正確に判断できる」というのが現状での私の考えである。

★コストパフォーマンス信仰~心の揺らぎ~

まみそぶろぐの方針が「コストパフォーマンス重視!安上がりでイイ音実現しましょーよ!」であることから察しがつくと思われるが、私はコストパフォーマンス重視、できる限り安価に満足いく音を手に入れたいという思いが常に頭の中にある。その影響により、「高額な機器=高音質」という固定観念を持たず、安い機器でもセッティング次第で素晴らしい音を引き出せるという信念に基づき様々なオーディオアクセサリーを試し、実際まみそぶろぐの記事はオーディオアクセサリーに傾倒した内容となっている。しかし、知人からのレンタル等でハイエンドと言われる世界の製品を実際に使ってみて感じたことがある。それは「ハイエンドはハイエンドたるものを有している」こと。中には例外もあるだろうが、ハイエンドと呼ばれる機器やオーディオアクセサリーは、馬鹿げた値段がつけられていることを納得させるだけの音、と言うよりは「メーカーが信じる理想の音を一片の妥協もなく極限まで追求し、好みの違いなど些細なことだと思わせるだけの完成された世界観」を確立しており、理屈抜きに「ハイエンドの音」だと無意識に頷いてしまう、そんな音を持っている。これは基本性能云々ではなく「製作者の情熱や信念を具現化した芸術品」と言えるレベルであって、とんでもない値段がつけられていても納得させられてしまうのだ。ただし、ハイエンド、トップモデルというのはメーカーの理想の音の集大成であるため個性の強いものが多い。「個性が強い=ハイリスクハイリターン」、好みに合わなければ「好みとは違う」となる可能性が高い。しかし、好みとは違うが「これはこれで素晴らしい音だ」とも思わせる説得力を持っているのも事実。私は小細工では超えられないハイエンドの壁というものを痛感させられ、そして「コストパフォーマンス至上主義」の信念が揺らいだ。だからといって、絶対的なコスト至上主義になったのかと言えばそうでもなく、現在は「ハイエンド機器、ハイエンドアクセサリーのほうが満足いく音が得られる確立が高い」といったポジションに位置しており、「コストパフォーマンス」は重視したいけど好結果を望める可能性が低そうなので金銭的に無理をしてでもハイエンドへ流れてしまう、といった現状である。このようなハイエンド実体験から、私は常々「上には上がある」という思いを抱いており、「自分が聞いたことのない音がまだまだある」という思いが強く、加えて「総合的な意味で更に高いレベルで自分好みの音を完成させたい」と思っている。そして、自分の理想の音というのは固定されたものにあらず、経験に追従して変化していくものだという考えに至った。

★結局は

私の結論としては、オーディオは「自分次第、気持ち次第、自己満足度次第」。これに尽きると思う。当たり前のことだが、自分の出来る可能な範囲内で自分の好みの音を作り上げることがオーディオの正しく楽しい道だろう。何で判断するのか、何を基準とするのか、何を重視するのか、何に注力するのか、全ては自らの判断で決定していかなければならず、他人は他人、自分は自分という考えて良いと思う。メーカーであれば商売として成立させるために調整する必要性が出てくるが、個人で楽しむオーディオであれば「自分が良いと思える音を追求すること」が大事だと私は思う。今回述べた「コストパフォーマンス」の考察は私の考え方なだけであって、「コストパフォーマンス」をどう捉えるかは人それぞれ違っていて当然であり、そうであってこそ面白い。費用と効果、費用と価値、費用と自己満足度、自分の決断で音を追求していった結果、結果的に高額な機器で構成されていた、逆に結果的に低価格な機器で構成されていた、そんな意思決定先行型で費用に無関心になれるようなオーディオライフを実現できた時こそ、オーディオに夢中になって心底楽しめているのではないか。そのように思うし、そのようになれるよう努力していきたいと思う。このように考えると「コストパフォーマンス」という言葉はある意味純粋さを削ぐ邪推な考えとも言えなくもない。つまり「コストパフォーマンス」など考えずに無邪気にオーディオを楽しんでこそ本当の意味で楽しめるのでは、と。逆に、費用を含め試行錯誤することも含めて楽しみだというのもまた一理あるだろうし、他にも違った考え方があるに違いない。それもまた人それぞれだろう。いずれにせよ、どんな形であれ、

趣味は没頭してこそ価値がある。

そう思いませんか?

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プロフィール
名前:
まみそ
競馬:
性別:
男性
「まみそぶろぐ」って何?:
ヘッドフォンやオーディオアクセサリーの感想などを筆ペン先生がぶった斬るWebサイト。
軽く自己紹介:
「永遠のオーディオ初心者」「糞耳筆頭」「ケーブル患者」「アクセ馬鹿」かつ「競馬中毒者」です!よろしく!








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